キラキラな日々の記録。byぴかりん

V6とキスマイを中心に観たもの感じたこと。

舞台「ビニールの城」 8/9,8/25 2016

やっとこの舞台についての感想を書いた。

今回、大変ありがたいことに2回観劇できたのだけれど、1回目観たときからもう頭の中がぐるぐるぐるしていて、早くこの気持ちを何かに書き付けておきたいと思う一方で、自分の感想や自分なりの解釈がまとまらなすぎてなかなかブログに手が出なかった。

1度目。

「今まで見た舞台の中(といってもそんなにたくさん見てないけど・・)の中で一番難しい!」と思った。言葉の響きや熱量、その中にふわふわと浮遊する感じ。そのような感覚に包まれてとても気持ちがよい。しかし、正直に言って、作品をきちんと理解できているかというと、腑に落ちていないままだった。

つい私は、登場人物の行動やせりふ一つ一つに(現実的な)意味を求めてしまう。

バーの中に池があること。朝顔の住んでいるアパートの隣の部屋の女は壁穴から覗いて恋に落ちるところ。水槽に沈んだ人形を、手錠をかけて救い出すことに何のメリットがある?という疑問。謎のマジシャンのような役割、引田の存在は何なのか。。等々

実際の行動の意味だけでなく、現実世界にはありえないあれこれの設定にまで躓いてしまい、劇の中の不思議な感覚と、頭の中の疑問を抱えたまま、この舞台について考えることが止まらない状態がつづいた。

日常には、もっとわかりやすいものがたくさん溢れている。こうやって、(ただわからないだけでなく、「わかりたい」と思える)「わからない」作品に出会えること自体は好きだし、出会える瞬間は貴重で、豊かだ。そういう考える幸せをも感じ取れた。

そう思いながらも私は気づいた。「私は少し頭が固かった。きっとこの舞台は、不思議な世界に迷い込んだつもりで、もっと力を抜いて観ればよかったのかもしれない。ふわふわと感覚的に見ればいいのだ」と思った。

しかし、しかしだ。

公演が終わってビニールの城のパンフレットを読んでいると、故・蜷川さんと唐さんとの対談が載っており、そこには「唐さんの戯曲は衝撃的なようでいて、確固たる裏付けがあるんだ」との言葉。。。そう言われてみると解き明かしたくなるじゃないか。。。でも決して「解き明かす」ことが最終目的になってはいけないとわかっているけれど、とにかく「わかりたい」そう思った。そしてそこはともかくとしても、圧倒的な熱量を持った言葉たちを少しでも掬い集めたかったー。その気持ちから2度目の観劇の際はメモ帳をもって挑んだのであった。

 

2度目。

言葉を書き留めることで、流れていく言葉たちの一部を拾うことができたように思った。そして、圧倒的な熱量と言葉のきらめきの中で浮遊する感覚が前回よりも癖になっていることに気づく。これが唐十郎の舞台か。。。

 

2度目から約1か月たっても、この舞台のことをふと考えてしまう時間があり、でも少し自分なりに腑に落ちたところもあった。ということで、観たときに疑問に思ったところと、自分なりの考えを書き付けておく。

(・・・と思って書き出してからさらに1か月たってしまった(笑)。)

すべて私の思い付き・自分なりの解釈だし、劇中のセリフを引用しているところはおぼろげな記憶に基づいているのでご容赦を。

 

①:なぜモモは朝顔に想いを寄せたのか。

モモが朝顔に想いを寄せたのはどうしてだろうか?単純に、隣の部屋に住む男性が自分が表紙のビニ本を持っていて、ビニ本に向かってある日「愛してる」と言った。それだけで「一緒になりたい」「私をビニールから出して」と求めるほどに想いを寄せるだろうか。ましてや、夕一(注:ゆういち。笑)のように愛してくれる男がいたにも関わらず。

夕一と朝顔が話すシーンで、夕一は、「朝顔は人格のないビニ本の女と、沈黙の人形とを一つのマナイタに置いた、そこがモモが恋をしたところだ」と話す。どうして生身の女としてではなく、人形と同じように(生身の人間ではなく)本来人格のない存在しか心を開けない朝顔に惹かれたのか。

そしてさらに、そんな朝顔に想いを寄せたのに、どうして、ビニールを破って(生身の人間として接して)ほしいと思ったのだろう。そこが少し矛盾しているように思って不思議でならなかった。

 

以下は私の解釈。

モモはビニ本の女として、性の対象として、いわば「商品」として見られるだけのことは望んでいなかった。しかし、ただ生身のモモを愛されるだけも望んでいなかった。おそらく、ビニールの中の自分も愛して欲しかった、なぜならそれはきっと、モモにとってビニールの中は、苦しくありつつも一つの彼女の存在のアイデンティティーだったから。

そこに現れた朝顔は、性の対象としてではなく、本来無機質なはずの人形とビニ本を同様に扱った。同様に扱うだけでなく、人形やビニ本の無機質なはずのものを愛する朝顔の姿。それを見たモモは、この人なら、私を本当に「私として見てくれるのではないか」と、希望を見出したのではないのだろうか。

苦しいというビニールの中。絶望もあるけれど、モモにとってはそうやって生きていく以外に手段が見つからないとしたら。

「ビニールから出して」という言葉は、ビニ本の仕事をやめること、と同義ではないように思う、なんとなく。それだけなら、仕事はやめれば済むだけの話(経済的な問題はあるかも?しれないが、実際に夕一と結婚して仕事はいったん辞めていたわけだし)。

感覚的な理解のうえでだけど、モモは「ビニールの中に絶望し、忌み嫌いながらも、そうやってしか生きれない、そこでしか輝けない私」であり、そのモモにとって、「ビニールの中の私を、商品や性の対象として扱うのでなく、人格(実際人形と同等に扱っているので人格じゃないんだけど)を認めてくれる人」に「生身の女として愛されること・一緒にいられること」が、それまでの生活には存在しなかった希望であり、今の生活を変えられる“何か”だと思ったのではないかと思う。

(女ってなんかそういう面倒くさいアイデンティティみたいなの持ってるところあるよね。そしてもっと単純に考えると、女として、好きになった人と一緒にいられれば、それだけで世界は変わったように見える、そういうところもありますが。)

 

②:そもそもビニールとは何なのか

そもそもこの作品のモチーフとなっている「ビニール」とは何なのか。モモは何の中にいるのか。これって、わかるようでわからないと私は思った。

現実にかかってる薄い膜。現実とを隔てるもの。臭いを隔離してビニールを破らない世界は綺麗なままである。想像を巡らせてみると、私たちの生活の中でも、たくさんそうやって「リアル」から目をそらして、またはフタをして生きている現実はある。

陳腐なたとえで言えば、たとえばスマホやパソコンのディスプレイなんかは現代のビニールだとも言えそうである。画面の向こうの現実は、本当に現実でも現実じゃないように感じ、臭いはしないし、面倒であれば画面を閉じれば終了し、数回のタッチで誰かとのかかわりを拒絶することだって簡単にできる。都合の良い現実。そういうものだろうか。

モモは、朝顔に「あなたがビニールを破らないのは、獣の匂いがするのが嫌なんじゃないですか」と言った。

この舞台の中での切なさは、そして現実の私たちの切なさは、朝顔がそうであったように、ビニールを破らなくたって、何も困ることなく生きていけることである。都合の良い現実を生きることで、それが何か欠けていると言えるだろうか?-深く現実とかかわることで得られる何か、を得ない人生だって明確に何かが欠けているとは言えないのではないだろうか。

頑なにビニールを破ろうとしない朝顔と、必死にビニールを破ろうとするモモの姿は、対比的であり、しかし一向に交わらず、悲しく切ない。実際には獣くさく、人間くさく生きている人の声や必死さが、響かない・届かないことだって、ビニールの外側で生きている人からすればデメリットではないかもしれない。

実際に、この物語は、ほとんど何も変わらないまま終わる。ビニールは破られないまま、モモはビニールの城に戻り、朝顔は(最後に人形の声が聞こえなくなり、モモを追うものの)ずっと心を開かないままで、夕一は誰にも愛されないままである。誰も死なないし、誰も不幸にならないが、何も変わらない。変えられない。だからこそ悲しい話のように思う。

都合のいい現実を生きること、それが間違っていると言えないのではないか、という私の感覚すら、もしかしたら現代的なのかもしれないけれど。

朝顔が水中の人形を救出するシーンの前に、腹話術師の誰かのせりふで、「バランスが崩れないと、一生このまま(そんなのは嫌だ、というニュアンス)」というのがあった気がする。一生このまま、の悲しさ。

 

③:朝顔にとっての人形や夕顔の存在とは何か

冒頭から、朝顔は夕顔を「夕ちゃん」と呼び、夕ちゃんとこんな話をした、という話をする。朝顔にとって人形とは「遠くからきた人」であり、「自分の腹の声はわからない」という。朝顔にとっての夕ちゃんとは、これはパンフレットでも言われているとおり、朝顔そのもののことなんだろう。

腹の声がわからない朝顔。夕顔の声として聞いていた声はすべて自分の腹の声だったんだと思う。私自身考えてみると、日々、生身の人間と接する中で生じる摩耗、そしてそれに呼応して動く自分の醜い感情、そのようなものを、自分のものではないと思えたらどんなにラクだろうか、と思う。朝顔は、きっとそれらをすべて夕顔の声として聴き、自分から切り離す。切り離すだけでなく、「遠くからきた人」として、自分とはもっと別のものだと考えていたのではないだろうか。生身の人間やビニールの中のものだけでなく、自分の中の醜さも避けていたのではないか。

「夕ちゃんは、子供が嫌いだと言った。あるいは、子供の心を持った大人が嫌いだと言った」そんなことを朝顔は話すが、その世界を忌み嫌う気持ちは朝顔のものだった。

水中救出劇の前に、ゴーグルをつけて人形たちに語りかける言葉。「駅のホームで一人たたずむ少年、その少年の手には手紙があり、『さらば14歳の人生、さらば現れなかった友よ』-その現れなかった友とは君たちのことではないのか?」。人形たちに対して、そうやって語りかける。「現れなかった友」とは、だれかを裏切って、あるいはだれかが裏切られる場面に遭遇しながら黙ってみていたのは朝顔自身のことだったかもしれない。

最後に、夕ちゃんと再会したときには夕顔の声が聞こえなかった朝顔は、おそらく自分の感情に気づき、悩みや苦しみ、様々な感情を感じているのかもしれないと思った。

 

以上が自分の疑問に対する自分の答え(笑)。

あとは、印象に残ったシーンなど。雑に。

 

①モモが電気ブランを飲みすぎて朝顔が口に指をつっこんで吐かせるところ。

モモと朝顔が隣に住んでいた時のことを話す中で、いつか飲みすぎた朝顔の口にモモが手をつっこんで吐かせたことがあった。その時に、朝顔が「いつも夕ちゃんの蝶番を直すときにこうやって口元に手をいれることがあったが、今日まで自分の口の中に他人の指が入るとは思わなかった」と話す。不思議なシンクロニシティシンクロニシティというのが適切なのか疑問だけど)。

おそらく物理的なふれあいではなく、そういう行為のシンクロニシティに、モモはつながりを求めている感じがしたところが印象的だった。モモはそれ以外にも、朝顔がマヨネーズを塗ったパンを食べていたことを思い出して、サラダのマヨネーズの中に顔をつっこんだりもしていた。

夕顔を同じ「夕ちゃん」だから夕一と結婚したように、ただ触れたい近づきたい、という類の愛情ではなく、精神的にどこかでつながっていたい、という感覚なんだろうと思った。

 

②モモが、「いつも放ったきらめきでのぞけば、ここはやはり塔の上です。」と言って、ビニールの城に飲み込まれていくラストのシーン。

悲しく、美しい。

上記で、何も変えられなかったストーリーだと言ったけれど、変わらなかったことには、モモのアイデンティティもあるんだと思う。それまでは苦しいと言っていたビニールの中へ戻るモモ。最後のシーンでは、それまでずっと履いていた雨靴を脱ぎ、池の水の中に足を浸す。それまでは、よく考えればずっと雨靴を履いていて池の水に足を浸さなかったことはもちろん、水槽の前でも自分は水に触れなかった。

ビニールの城へ向かうところの歌では、「ビニールの城で姫を気取っています」というような歌詞を歌ったモモ。

苦しい苦しいと言いながらも、ビニールの中は結局はモモの居場所があり、ビニールの城の塔のうえでこそ輝けることをわかっていて、アイデンティティをもっていたのではないかと思う。水はモモにとって離れたかった現実か何かであって、しかしながら現実を受け入れ、ここで生きていくと覚悟を決めたのが雨靴を脱いで、水に足を浸した瞬間なのではと思った。

 

③歌

雑感。全編を通して、剛くんは「生身の人間と向き合うことのできない朝顔」だったけど、歌のシーンだけはどうもね、、、「現役のアイドル」であることがどうしても隠しきれていないような良い声してて(笑)、良いんだけど、「あーーー剛くんだー!」って思った瞬間でした(笑)。

 

 *

最後にいろいろ

1度目みたときより、2度目のほうが、自分なりの理解もそうだったけど、剛くんの演技も引き込まれるものがあって、もしかしたらこの作品は剛くんにとっても自分のものにするのが難しかったんじゃないかな、なんてことを思ったりもしました。

観劇したときはピンとこなかった「ビニール」のモチーフだけれども、日常を生きるうえで、傷つくのが怖くて、自分が傷つくくらいなら相手を拒絶してしまう(されてしまう)ことってあるなぁと思う機会があり、なんとなく、この作品のことを思い出してた。

そうやって思い返ししながら、ずっと下書きに書いて書き足して、を繰り返して観劇してから2か月も経ってしまった(笑)。それくらいかけても、ちゃんと自分の感想を残しておきたかった作品。自分の解釈やなんかには的を得てないところもたくさんあるのは承知のうえだけれど、本当は解釈なんかはどうでもよくて、ただただ「こんなに良い作品に出会えてうれしい」という気持ちです。